鹿之助の太陽【MUSICUS!共通(中編)】

 僕は切実に光を求めた。

 正気を保つには、光が必要なんだ。

 このドアの向こうには、青空と輝く太陽があって、その清々しい何かが、僕の内側を明るく照らし出すのだろう。

 そして、正しい何かを思い出すのだ。

(瀬戸口廉也『キラ☆キラ』/前島鹿之助)

 

 

 前回の記事「世界の果てへの旅」では、安部公房の「壁」という作品を引用しつつ、MUSICUSに見られるその影響についてを考察してきた。

 安部公房だけでなく、彼の作品に影響を与えているであろう作家や作品は無数にある。しかし、あえて特筆するのであれば、彼の作品に特に強い影響を与えていると思われる作家がひとりいる。

 

 その作家の名は、アルベール・カミュ

 ノーベル文学賞も受賞したフランスの作家である。

 瀬戸口廉也作品の、特にキラ☆キラにおいては、カミュの作品の影響を強く受けていると感じられる描写が多い。

 

 この記事を読んでいる人で、カミュという作家を知る人はどれくらいいるのだろうか。

文学が好きな人であれば、彼のことを知らない人などほとんどいないだろう。

 しかし、カミュという作家を知らずとも、殺人の動機を「太陽がまぶしかったから」と語った殺人犯の物語を、多くの人は耳にしたことがあるのではないだろうか。

 あまりに荒唐無稽かつ意味不明な理由でありながら、一度聞いてしまえば忘れることのない強烈なフレーズである。

 これはカミュの代表作「異邦人」の主人公ムルソーの台詞だ。

 彼はアラブ人を殺した罪に対する裁判のなかで、この台詞を口にする。誰がどう聞いても苦し紛れの言いわけのようにしか聞こえないのに。

 ムルソーは何故、真実を述べなければならないはずの法廷の場で、こんな無茶苦茶なことを言ったのだろう。

 

 今回の記事では、作家カミュの人生と異邦人という作品を追いながら、瀬戸口作品への影響とMUSICUS本編に係る内容についてを考察していこう。

 

アルベール・カミュ『異邦人』

 貧困は僕にとって必ずしも憎むべきものではなかった。なぜなら、太陽と海は決して金では買えなかったから。

 私が自由を学んだのは、マルクスのなかではなかった。私は自由を、たしかに貧困のなかで学んだ。

(アルベール・カミュ)

 カミュという作家の人生は、アルジェリアの地から始まる。カミュは曽祖父の代からアルジェリアに入植したフランス人の家庭だった。

 父親は家族を養う働き手であったが、カミュが生まれてすぐに戦争で亡くなってしまう。

 一家の稼ぎ頭のいなくなってしまったカミュの家族は、地中海に面したアルジェの地へ祖母を頼りに移り住み、極貧の生活を強いられるようになる。

彼の生活は、横柄な祖母と障害を持つその息子と娘、そして耳の聞こえない母親達との狭いアパートでの共同生活だった。

 小さな子供にとって、この極貧で狭苦しい生活に嫌気がさすのは当然ではないだろうか。もしくは、自分の同じくらいの歳のごく一般的な家庭の子供に対して、怨みや羨望を抱いてもおかしくないはずである。

 

 けれど、カミュは誰も羨むことはなかった。慎み深いという性格もあったのかもしれない。

 彼にとって、どこまでも青く広がる地中海と、美しい太陽があれば、それで充分だったのである。

 後に、カミュは当時の心情をこのように綴っている。

 私の少年期を支配していた美しい太陽は、私からいっさいの怨恨を奪いとった。私は窮乏生活を送っていたが、また同時に一種の享楽生活を送っていたのである。私は自ら無限の力を感じていた。

(…)この力の障害となるのは貧困ではなかった。アフリカでは、海と太陽とはただである。さまたげとなるのは、むしろ偏見とか愚行とかにあった。

(アルベール・カミュ)

 カミュの作品には、その多くに「太陽と海」が印象的に描かれている。どれだけ苦しい状況のなかにあっても、太陽と海だけでは誰のものでもなく、自由と救いの象徴として描かれているのである。

 カミュにとって、太陽や海は何者にも変えられることのない真実の象徴であり、その暖かな陽の光の下に生きる小麦色の肌の人々は、どれだけの貧しくても、自由と生きる力に満ちている。

 そして、そういった自由や生きる力をさまたげるものは、生きるうえでの貧しさや苦しさではない。偏見や愚行-人の生きる上で後付けでできたような道徳や常識、正義といった価値観が自由をさまたげている。

 カミュは、そんな風に感じていたのかもしれない。

 

 彼の著作「異邦人」において、カミュの哲学を投影した主人公ムルソーは、白日の太陽を浴びて生きるひととして描かれている。

 

 今日、ママンが死んだ。

(アルベール・カミュ/異邦人)

 異邦人という作品は、施設に預けていたムルソーの母親の葬式の場面から始まる。

 彼は自分の母親の葬儀に参列した次の日に、恋人のマリィとともに海水浴に出かけ、喜劇映画を観て笑い転げる。

母親が亡くなった次の日にである。

 

 少なくとも私の感覚では、この行動はなかなか理解しづらいところがある。自分の親族が亡くなった日に、金曜日の夜に飲み屋にでも寄るかのような感覚で遊びに出かけているのである。

 この彼の支離滅裂な行動は、後にアラブ人を殺害した罪の裁判において、検事に問い詰められることになる。はじめは有利だったはずの裁判は、彼のこの行動とそれをおかしいと感じていない感覚が露呈するにつれて不利になっていき、最後には死刑を言い渡されるのである。

 母親の死を悲しむこころを持たない、一抹の道徳心すら持ち合わせない殺人犯。

 法廷はムルソーのような道徳心を持ち合わせない人間を生かしておくことはできないとして、極刑の判決を下したのである。

 

 私のようなみみっちい人間であれば、同じように検事に問い詰められたなら「気が動転していた。」とか「母親が亡くなったことが寂しかったから、良くないとはわかっていたけれど遊びに出掛けた。」くらいのことを平気で言うだろう。そうすれば罪は軽くなるし、実際のところ、その言葉が本当かどうかを確認する手段がないからである。

 だが、ムルソーはそうしなかった。遊びに出かけた理由を頑なに「なんとなく」であると検事に言い続けたのだ。そんなことをすれば、どんどん裁判が不利になっていくことなど分かりきっているのに。

 

 彼は何故、こんな行動をとったのだろう?

 それは彼が、自分自信の感情と、今この瞬間を生きていることに対して、誰よりも正直であったからである。

 

 確かに、自分の親族が亡くなったとして、それを悲しいと思うことは当然のことかもしれない。

 けれど、「親族が亡くなった人は、その死を悲しみ、周りの人もその心中を察して気遣わなければならない」というのは、人が亡くなった際の慣習でしかない。日本では喪中の人に年賀状を送ってはならないという慣習があるが、それらが感覚的に一番近いものではないだろうか。

 ムルソーとって、そういった「道徳的な慣習」は自分の感情に対するウソでしかないのである。

 実際、母親が死んだ時、彼はその死を深く悲しんだ。

けれど、以降の「慣習としての悲しみ」については、ムルソー本人の悲しみではなく、他人の作り出した道徳観でしかないのである。

 彼にとっては、一瞬一瞬のうち移り変わり続ける自身の感情こそが真実であり、社会のなかでつくられた道徳観は、全て虚構に過ぎないのだ。

 では、そうした道徳観が虚構であるとして、何故彼はそれこそ脅迫でもされているかのように、本当のことだけを法廷で証言するのだろうか。

 

 それこそが、彼が「太陽のせい」でアラブ人を殺した理由なのだ。

 先にも書いたが、カミュという作家にとって、太陽とは「誰のものでもない生きる力の象徴であり、真実を照らし出すもの」なのである。

 照りつける白日の太陽の下では、人の作り出した虚構(カミュの言葉を借りれば、偏見とか愚行)は意味をなさず、常に真実が照らし出されなければならないのである。

 照らし出された真実の感情による行動が、例え道徳的にどれだけ愚かで醜くく見えるようなものであったとしても、それはまったく陰りのない、生きる力に満ちた本来的な人のあり方なのだ。

 

 いやいや、なんでそうなるねん。とは思う。

 ただ、幼少期の貧困のなかで、「誰のものにもならない自由と生きる力」を太陽と海のなかに見出したカミュという作家にとって、太陽は人の生きる力の象徴であり、それをさまたげるウソは、彼にとって良くないものなのだ。

 そして同時に、彼は倫理観では測ることのできない、一瞬一瞬で移り変わる予測のできない馬鹿でかい「不条理な感情」が人を人たらしめる根源的なものであり、無限の力であるのだと訴えているのである。

 ムルソーが作品の中でおおよそ道徳観や倫理観から外れた真実の感情を語る時、常に照りつける太陽が描写されている。

 そして、一瞬一瞬で移り変わり続ける感情を法廷で表現しなければならなくなった時、その言葉は「なんとなく」という言葉でしか表すことができなかったのである。

 仮にもしそこに理由があるとするならば、ウソをつくことを許さず、揺れ動く感情を常に照らし出す「太陽のせい」でしかないのである。

 彼は、真実の意味で最も人間らしく生きている。けれど、社会から求められる言動や立ち振る舞いをすることができないルムソーは、多くの人の目から見れば人間のような何か、つまるところ異邦人でしかないのである。

 

山中鹿之介の伝説

 さて、ここからは瀬戸口作品におけるカミュの影響を追っていこう。

 瀬戸口作品においても、物語における重要な場面において、太陽やそれに近しい光が描かれる。

 そしてそれは、MUSICUSの前日譚となるキラ☆キラにおいて特に顕著だろう。

 キラ☆キラという作品のタイトルには、いくつかの意味が込められていると思われるが、その一つに、カミュの太陽のような「真実を照らし出す光」という意味が込められていると考えられる。

 そして特筆すべきは、主人公の前島鹿之助の存在だろう。

 以前の記事で紹介したように、鹿之助は、「周囲の人間の顔色をうかがいながら、その場に合わせて、最もそれらしい行動や言動をする」ように育った。

 これは、カミュの哲学を基に考えると「表面上の正しさだけで、本来的な生きる力を失った」人間なのである。これは異邦人の主人公ムルソーとは真逆の関係であると言える。

 

 そうした彼のあり方を象徴していると言えるのが、彼の名前の由来である。

 前島鹿之助という名前は、とある戦国武将にあやかって、親にこの名前をつけられたのだと鹿之助本人が語っている。

 その武将とは、山中幸盛

 通称、山中鹿之介と呼ばれる戦国武将である。

 山中鹿之助は、今から400年前、現在の中国地方に実在した戦国武将である。彼は元々、主家である尼子家に使えていた武将だったが、西日本を制覇した毛利家の侵攻によって尼子家は攻め滅ぼされてしまう。

 戦国武将であれば、仕えていた先が滅ぼされてなくなれば、新しい仕官先を探すのが普通である。働いている会社が潰れたら、新しい会社を探して働き口を見つけるという感覚は、今も昔も変わらないだろう。

 しかし山中鹿之助は、滅ぼされてしまった尼子家を蘇らせるために、一人奔走し続けるである。そしてそれは、ものの一度や二度の試みではなかった。敵方に何度捕らえても、あらゆる手段を使って脱走し、宿敵である毛利家に立ち向かうのである。

 彼を危険視した毛利家の吉川元春によって殺されるまで、彼の毛利家への反抗は終わることはなかった。全ては尼子家を再興するため。自分を召抱えてくれた尼子家への忠義心によって成り立っていた。山中鹿之介の人生は、後の勝海舟をして「今までの日本に、最初から最後まで志を貫いた人は、山中幸盛だけである」と言わしめている。

 そんな彼の伝説の中に、こんな逸話がある。

 尼子家が滅ぼされ、毛利家との戦いと逃走に明け暮れる中で、彼は山の端かかった三日月に向かってこんな言葉を語りかけるのだ。

 

「月よ、我に七難八苦を与え給え。」

 

 つまるところ、めちゃくちゃしんどい目にあっても構わないので、自分の目的である尼子家再興を叶えて下さい、と月に願った訳である。

 これは、鹿之助が幼少期より戦いの勝利を月に願ったということにも関係しており、彼にとって月は、カミュが太陽を信じるように、自分にとっての祈願の対象だった訳である。

 

 実際のところ、こんなワンシーンがあったという確証はなく、後年の創作に付け加えられた作り話である可能性が非常に高いだろう。しかしながら、彼の忠義心の塊とも言えるようなその生き方は、後の人々の心を強く惹きつけたのだ。

 彼の人生は「七難八苦」に始まるようなおよそ架空のエピソードを付け足されながら民間伝承となり、「山中鹿之助の物語」という伝説となって現代まで残り続けることになる。

 

 そして、その生き方や伝説は戦前の教科書にも採用され、「受けた恩を最後まで忘れない、日本人道徳の模範的な人物像」として現在の日本人の道徳観に強い影響を与えることになるのである。

 キラ☆キラの主人公前島鹿之助は、こうした背景の人物を下敷きにして、その名前が付けられたのである。

 

真実の太陽と虚構の月

 真実は、光と同様に目をくらます。

 虚偽は反対に美しい黄昏であって、すべてをたいしたものに見せる。

(アルベール・カミュ)

 さて、ここまでで紹介した人物について、ここでもう一度整理してみよう。

 異邦人のムルソーは、白日の太陽に照らし出される一瞬一瞬の感情が、どれだけ愚かで醜い不条理なものであったとしても、それこそが人の本来持つ無限の生きる力の源泉であると信じていた。そして人間が後から作り出した道徳や正義といった愚行は、それらをさまたげるものであり、真実を覆いかくす虚飾なのである。

「君は若いし、こうした生活が気にいるはずだと思うが」私は、結構ですが、実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答えた。すると主人は、生活の変化ということに興味がないのか、と尋ねた。誰だって、生活というものは似たり寄ったりだし、ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない、と私は答えた。主人は不満足な様子で、君の返事はいつもわきへそれる、といい、君には野心が欠けているが、それは商売にはまこと不都合だ、といった。そこで、私は仕事をすべく席に戻った。私だって、好んで主人を不機嫌にしたいわけではないが、しかし、生活を変えるべき理由が私には見つからなかった。よく考えてみると、私は不幸ではなかった。学生だった頃は、そうした野心を大いに抱いたものだが、学業を放棄せねばならなくなったとき、そうしたものは、いっさい、実際無意味だということを、じきに悟ったのだ。

(アルベール・カミュ「異邦人」)

 彼は勤め先の主人にパリへの転居を勧められる。華やかなパリのまちは、おおよそ若者にとっての憧れであるし、アルジェのような偏狭の地にいるよりも実りのある生活ができるはずだ。

 けれどにムルソーとってその華やかさは虚飾であり、太陽を遮るものがない限り、どこに住み生きようと結局のところ何も変わらないのである。

 

 世の中の多くの人にとって、華やかなパリのまちに移り住むことは、幸せなことであるかもしれない。

 しかし、人間の作り出したまちの華やかさに価値を見いだせない彼にとって、パリに移り住むことは幸せになり得ず、そしてまた不幸ではなかったのである。

 

 転勤の話のすぐ後に、結婚の話をするために、恋人のマリィが訪ねてくる。

 ムルソーは彼女との会話の最後に、こんな言葉を残す。

私は、しばらくの間パリで生活したことがあるのだと教えてやると、どうだったと、尋ねたから「きたない街だ。鳩と暗い中庭とが目につく。みんな白い肌をしている」と私はいった。

(アルベール・カミュ「異邦人」)

 彼は、パリのまちを人のつくった華やかさで満ちたまちであり、太陽の光の届かない暗いまちであるとも言っている。

 

 では、キラ☆キラの前島鹿之助はどうだろうか。

 彼は、彼自身の感情を常に覆い隠し、その場に合わせた最もそれらしい言葉を口に出す。そうしていることが、最も利口な生き方であり、人生に余計な波風を立てない方法であり、不幸にならない生き方だと考えているからだ。

 ルムソーの考えに照らし合わせると、彼は虚構という華やかさのなかで生きているということになる。そしてそれは、人の本来的なあり方を否定しており、本当の意味で、力強く生きることを否定しているとも見てとることができる。

 複雑な家庭事情から、そうした生き方を選択して生きてきた鹿之助に、彼の祖母は一言だけ言葉を投げかける。

 

 

「不幸じゃないってことが、幸福じゃないんだよ」

 ムルソーは「普通の人にとって当たり前の幸福」を幸福に感じないことを、自分が不幸であると感じることはなかった。鹿之助の祖母の言葉は、それと対照の言葉であるようにも聞こえる。

 

 こうして並べてみると、彼らの行動と考えは全くの正反対であり、真逆の存在であることがうかがえる。

 言い換えれば、この二人は「真実を包み隠さず照らす太陽」と「偽物や醜いものであっても、それらを美しくみせる月」の対比であり、それぞれのメタファーなのである。

 

 キラ☆キラの物語は、最もらしい生き方を選択する日々にどこか虚無感と空しさを感じる前島鹿之助が、自身の内側を照らす太陽を求める物語であると言っても良い。

 彼の自分自身ですら忘れてしまった内面を照らし出すものは、太陽だけではない。作中に描写される太陽に等しい存在は「ライブとステージライト」と「椎野きらり」である。

 とにかく無我夢中で、必死に演奏しているうちに、ふっと、ステージライトが明るくなったような感覚を覚えた。

 何かトラブルがあったのかと顔を上げたが、そこにあったのはライブをはじめたときと変わらないライトの光だった。

 不思議に思いつつ、また手元に意識を集中して演奏を開始したのだが、やっぱりどんどん視界が明るくなってゆくような気がして仕方ない。

 どこかに意識を吸い込まれるような、ちょっと怖い感じがする。

(…)ほとんど忘我に近い冷たい集中力のなか、周りの音を聞く耳と、弦をかき鳴らす腕だけが、僕の全てになってしまったみたいだった。

 眼前にいるはずの膨大なオーディエンスのことも、会場のどこかにいるというテレビカメラのことも、何一つ考えなかった。

 同じステージで演奏しているはずの、他のメンバーのことも意識しなかった。

 かわりに、そこには彼女たちの作り出す音があり、僕はその音の存在だけを意識していた。

 光がどんどん強くなってゆく感覚も、はじめこそ恐ろしかったが、すぐに無視できるようになった。客席からの音はまったく聞こえずに、モニタースピーカーの音だけがどんどんクリアになって来るように思えたが、それは演奏を続けていく上で好都合だった。

 意識しなくても音がはっきり聞こえるようになると、僕は急に自由になったような感じがした。

 こんなに思い通りに演奏できるなんて。

 そのことが、こんなに嬉しいことだとは、知らなかった。

 曲が終わり、MCの時間になると、また周囲は暗くなった。

 ステージライトの光はあいかわらずこれ以上ないほどの光を僕らに照り付けている。

だけど、先ほどまで感じていた光のようななにかに比べれば、明らかに輝きが落ちて、薄暗く感じられてしまうのだ。

 これが普段の世界の光量なんだとしたら、僕はいままでずっと、こんな薄暗い世界で生きていたのだろうか?

 早く次の曲が始まらないかなと思った。

 自分はいまとても良い状態に入りつつある。

 僕は心のなかの、火照ったその感覚を次の曲の開始まで失わぬよう、大事に抱えながら、眼前で行われるMCを眺めていた。

(瀬戸口廉也『キラ☆キラ』/前島鹿之助)

 物語の佳境とも言える福岡でのライブシーン。鹿之助本人すら忘れてしまっていた内面を、ライブのステージライトの光が照らす。

 盛り上げり続ける会場の熱気とステージの演奏のなかに、彼は忘れかけていた、活き活きとした自由のような感情を思い出す。

 

 暗がりの中に見つけた自由。それは鹿之助がテニスの練習のなかで見つけた境界線の向こう側にある自由とは少し異なっているようにも感じられる。鹿之助ひとりでは、その自由にはたどり着くことができなかったのだから。この輝かしいステージまでくることも、一人ではできなかっただろう。

 彼をここまで導いたのは、椎野きらりというもう一つの太陽である。

 ステージライトの輝きは、暗いところに突然現れたせいか、文化祭のときのあの太陽よりも、ずっとまぶしく感じられる。

 あまりにも輝きすぎているものだから、僕はなんだかそこに入ってはいけないような気がして、そこで足が止まってしまった。

 すると、僕を呼ぶ声。

「鹿くんっ!」

 いつのまにかステージにあがったきらりが、あかりのなか、僕を振り返っていた。

「何やってるの!はやくおいでよっ」

 光の中からきらりは呼び、一歩近づいて、僕の手を取った。

 彼女が手を引っ張ると、僕の全身は魔法が解けたように軽くなった。

 ため息をつき、僕はステージの光のなかに飛び込んだ。

(瀬戸口廉也『キラ☆キラ』/前島鹿之助)

 バンドが初めてライブハウスで演奏するシーンにおいて、暗がりから鹿之助を連れ出すきらりの姿がうかがえる。物事を冷めた視点からしか見ることのできない鹿之助にとって、面白いことや嬉しいこと、悲しいことや辛いこと、そういった全てをありのままに感じて生きているきらりは、鹿之助にとっての「太陽」であり、内面を照らし出す光の象徴として描写されているのである。

 

 

MUSICUSの太陽

 ここまで、カミュという作家と瀬戸口廉也の過去作の関係性を解説してきた。

 最後に、MUSICUS本編に垣間見えるこれらの描写について見ていこう。

 

 

 MUSICUS本編において、直接的に太陽の描かれるシーンはほんの数回程度しかない。しかし片手で数えられる程度の回数にも関わらず、一度本作をプレイしたことのある方であれば、およそそれがどのシーンかをすぐに思い出せるであろうほど重要なシーンの背景として、MUSICUSの太陽は描写されている。

 本作の太陽が照らし出すものは、キラ☆キラのような性格や社会性といった内面の虚飾を照らし出す光とは少々異なる。あえて言うのであれば、その存在は『問いかけ』そのものである。

 ジリジリとアスファルトに照りつける真夏の日差しと、無数に転がる蝉の亡骸を背景に太陽が照らし出すものとは、『人はなぜ無意味だと知りながらも生きようとするのか』ということへの根源的な問いかけなのだ。

 この太陽の問いかけを前に「死にたくないからなんとなく生きている」などというような誤魔化し(虚飾)は意味をなさない。

 何故ならば、この問いかけを前にした時、人は『生』と『死』という二つの答えしか持ち合わせ得ないからなのである。

 

 どういうこと?と思う方もいるだろう。ぼんやりした書き方になったことについて、まずは謝らなければならない。

 このMUSICUSの太陽は、本編のあるシナリオの結末に深く係る描写であるため、ここで詳細を考察することは壮大なネタバレに繋がってしまうのだ。

 そのため、今回の記事はあくまで作品の共通部分となる『太陽の描写』の意味についての考察に止め、『MUSICUSの太陽』の意味については該当するシナリオ考察の記事に任せたいと思う。

(それまでこのブログ続いていればの話。)

世界の果てへの旅【MUSICUS!共通(前編)】

 佐藤さんは時々この夜のガラガラの教室を「世界の果てで授業を受けているみたいだ!」と言う。

 社会の中心からドロップアウトしてしまったと彼女は感じていて、コンプレックスでたまらなくなるらしい。それが、そんな言葉になるんだ。

 僕はその言葉を聞いたとき、何か大事なことに気づかされたような気がしてハッとした。

 もしかしたら、僕はその「世界の果て」が気になって仕方がないのかもしれない。

(瀬戸口廉也『MUSICUS!』/対馬馨)

 

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はじめに

 数年前、MUSICUSというゲームがPCアダルトゲームとして発売された。いわゆるエロゲーというやつである。

 時代遅れの紙芝居だのオワコンだのとか散々言われまくっている業界なのだが、そんななかでクラウドファンディングの国内支援総額1位という数字を叩き出したのが、このMUSICUSという作品だ。2022年3月には同様の方法で開発資金を募り、PS4版とSwitch版も発売している。

 この作品が発売前から期待され、それだけ多くの人の支援を受けた背景には様々な要因があるのだが、その一つにメインシナリオライターである瀬戸口廉也の存在があることは間違いないだろう。筆者もまた、彼の作品が読みたいがために心ばかりの投げ銭をした1人でもある。

 このブログでは、瀬戸口廉也という作家とその過去作品についてを語りながら、本題となるMUSICUS本編の考察をねちねちと書き連ねていく予定である。

 普段文章と縁遠い生活をしているため、読みづらい部分も多いと思うが、どうかご容赦願いたい。

 そしてもし、未プレイの方でこのブログを読み、この作品や作者に興味をもってもらえた方がいるのであれば、それは筆者にとって幸いなことである。

 

世界の果てへの旅

  物語の序盤、定時制の夜の教室で、主人公の対馬馨(つしま けい)はこんな言葉を思い浮かべる。

 「世界の果て」

  なかなかメルヘンな風味のする言葉ではあるが、同時にどこか人を惹きつけてやまない不思議な魅力のある言葉だ。

  馨はこの言葉を聞いた時、ハッと何かに気付かされたような気がした、と語っている。この言葉には、一体どんな意味が含まれているのだろう?

 

  MUSICUSの物語は、代々続く医師の家庭で育った馨が、進学校で起こしたある事件をきっかけに退学となり、定時制の高校に通っているという場面から始まる。

 彼の周囲の大人達は、進学するための家庭教師を紹介するなどして、馨が社会からドロップアウトする前の生活に戻れるよう便宜を図ってくれているが、馨本人は内心ではあまり乗り気ではないようだ。

 何事もなかったかのようにもとの自分の人生に戻ってしまう。本当にそれでいいのか。
 それを目指してあんなに頑張って勉強をしてきたのに、それが現実味を帯びてきた今、どうしてこんなに気持ちがグズグズとするのだろう?

 この学校へ来て、前とは違う人々と出会い、前とは違う世界を知った。
 そして、世界にはもっと自分の知らないものがたくさんあるんだと実感させられた。……なのにまた、戻ってしまっていいんだろうか?僕は本当に、医者になりたいんだろうか?それが僕の、この対馬馨という人間の、生まれてきた目的なんだろうか?というか、人生って何?

 恥ずかしくって人には言えないけれど、最近そんなことをよく考える。
 小説をあんなに夢中になって書いたのも、そういうもやもやとした気持ちが何か複雑に作用した結果なのかもしれない。あれを書いている時、僕は確かには自分に道を示してくれる何かを期待していた。……そうして投稿した結果は喜んでいいのか、どうなのか、微妙なところではあるけれども。

 とにかく、もしこのことを人に相談すれば、とにかく勉強をして、いい大学に入ってから考えなさいと言われるのはわかってる。
 親戚は間違いなくそう言うし、もしかしたらこのクラスの誰かに相談しても同じことを言われるかもしれない。

 でも僕は、その言葉では納得出来ないんだ。

(瀬戸口廉也『MUSICUS!』/対馬馨)

 

 自分の過ごしている日々に言い知れぬ違和感を感じた彼は、退学という形で平凡な日常からドロップアウトする道を選ぶことになる。けれどその先に待っていた、それこそ社会から忘れ去られた世界の果てのような夜の学校でも、その違和感を拭えずにいるようだ。

 人生とはなんぞや?という無駄に壮大な疑問は、人間誰しも一度は考えそうなのものである。

 しかしながら、ほとんどの人にとって、そんなパンケーキみたくふわっふわな疑問について考えるよりも、明日の課題やら受験やら、あるいは就職やら仕事の〆切やらという確実に来るであろう目先の問題をなんとかすることの方が優先されてしまいがちであるようだ。

 それこそ馨のように、自分の通っていた学校を退学してまで、その問題を突き詰めようと考える人がどれだけいるだろう。

 現金な私からしてみれば、そんなことをするくらいなら、とりあえず高校には残り続けて間違いのない道を選ぶ方が賢い判断なんじゃないかと思ってしまう。

 けれど、そんな世間的に見て正しいと思えるような選択が、本当に自分自身にとっても正しい選択と言えるのだろうか?

 もしかしたら、そんな大層なものじゃなくても、自分だけにとって、これしかないと思えるような道がどこかにあるんじゃないだろうか。

 『自分の人生とは何か。』

 その漠然とした問いに真剣に向き合う青年の悩みが、冒頭の言葉につながるのである。

 

安部公房『壁』

 『世界の果て』

 現代に生きている私達からすると、頭大丈夫か?と心配になるような言葉を口走っているようにも聞こえる。

 というのも、私達はこの世に「世界の果て」という場所が存在しないことを知っているからだろう。

 むかしの人達は、海の果ては滝になっていて世界の果ては実在するものであると信じていた。

  けれど今は違う。地球には、どこまで行っても世界の果てなど存在せず、ただぐるっと一周して元の場所に戻ってきてしまうということは常識となっている。

 もちろん、それは磬自身もわかっているはずだ。しかし、彼は大真面目に世界の果てを見つけたいと考えているのである。

 これはどういうことなのだろう。

 芥川賞受賞作である安部公房の「壁」という作品の中に、この世界の果てという言葉について言及されているシーンがある。

 「壁」という作品は、主人公が自分自身の名前を失ってしまう、という導入から始まる。

 ある日、いつものように会社に出社すると、自分の代わりに「自分の名前の入った名刺」が働いており、周りの人々はその名刺を主人公であると認識している。そして反対に「名刺という名前」を失った主人公は周囲からまるで腫れ物のように扱われることになるのである。

 一体自分はどうなってしまったのか。このわけのわからない理不尽な状況のなかで、自分の名刺に話を聞こうとすると、名刺は主人公に対してこのように告げる。

「一体君はここに何しにやってきたんだ。最初からここは僕の領分だ。君なんかの出しゃばる場所じゃない。もし個人的に君に関心をもっている俗物どもに見られたりしたら、ぼくらの関係が見破られてしまうだろう。まったく迷惑至極だよ。ほんとうに

何の用があるっていうんだい?さあ、早く行ってもらいたいな。ありていに言って、

ぼくは君のような人間と関係しているということが恥ずかしくてたまらないんだ。」

(安部公房『壁』/S・カルマの名刺)

 

 「壁」という作品は、『社会の中の孤独』というテーマを描いた作品であるという。

 自分と分離した会社で働いている自分の名刺とは「周囲の他人からみた自分」のことであり、物語の視点となる主人公は「自分の視点から見た自分」であると言える。

 分離したことで、他人の視点から意味付けされた「名前」を失ってしまった主人公は、剥き出しの自己そのものと言える。会社内における地位や立場といった社会的な意味付けを失ってしまった彼は、他人からからすれば厄介者でしかないらしい。

 そしてそれは他人だけでなく、あるいは名刺が彼に言い放ったように、社会的な自分自身からしても、関わりを知られたくないような迷惑なものにしか映らないようである。

 メラビアンの法則よろしく、人間の印象というのは見た目や話し方といったものに非常に左右されているらしい。これは他人からみた視覚的な情報によって、印象という名の名刺がつくられているからである。 あとから話し方や性格がわかってくると、少しずつそれは更新されていく訳だが、とかく他人から何がしかの情報を得ることで、名刺は出来上がっていくことになる。

 では、そういった情報を何も得ることができない対象がいたとしたらどうだろう。なるほど、これは確かに厄介かもしれない。

 あるいは、性格や話し方というのは、確かにその人の内面がある程度反映されたものかもしれないが、それらを全て映し出しているとは言い難い。

 言葉や性格、話し方などでは表現することのできない内面。名刺化することのできないその領域は、他人から見れば厄介この上ないと言える。 そしてその内面は、厄介であると同時に、誰からも見向きもされることのない孤独な領域であると言えるのかもしれない。

 話を戻そう。物語の主人公は、仮の名前であるS・カルマとして、ひょんなことから「世界の果」に行かなければならないことになり、その案内人であるせむしのもとで、世界の果に関する講演を聴くことになる。

「さて、ずっと以前、と申しましても、みなさんがこの世に存在するよりはまだ昔のことです。地球がまだ平たい板で四頭の白象に支えられているとか考えられていたころ、世界の果、それは当然極度に密度の拡散した周辺地帯として解釈されていました。しかし、現代、地球が球体になってこのかた、すっかり事情が変わったのはみなさんも御承知のとおりです。すなわち、世界の果という概念も、むしろその言葉のもつニュアンスはまったく逆の相貌を呈してきた。つまり、地球がまるくなったので、世界の果は四方八方から追いつめられ、そのあげくほとんど一点に凝縮してしまったのですね。お分かりでしょうか? もっと厳密に言えば、世界の果はそれを想う人たちにとって、もっとも身近なものに変化したわけなのです。言いかえると、みなさん方にとっては、みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線にほかならぬ。現代のコロンブス的旅行者が船を用いないのも、うべなるかな! 真に今日的な旅行くものは、よろしく壁を凝視しながら、おのれの部屋に出発すべきなのであります。」

(…)

「しかし、(…)ここでひとつ注意していただかなければならないことがあるのです。それは、地球が球体であるということによって世界の果に附加えられた今ひとつの重要なる性質についてであります。すなわち、両極という概念…お分かりでしょうね。北極と南極との関係がそのいい例です。したがって、そこでわれわれは次のような哲学的意味附を要約しうるでありましょう。すなわち、世界の果も自然二つのポールの弁証法的統一と考えざるを得なくなる。これを具体的に申しますと、つまり、みなさんと部屋もそれに対立する極としての世界の果を発見することによって、はじめて真の世界の果たりうるというわけなのであります。世界の果に旅立つものは、単にこの世界から脱出するものであるのみならず、同時に、この二つのポールを結びつけるという重大な使命を帯びた使者である…あるいは、自己をメッセージとして自己に贈りとどける使者である!」

(安部公房『壁』/せむし)

 

 せむしのいう「世界の果」とは、つまるところ「自分の部屋」のことであり、壁はその部屋を限定する地平線のことであるらしい。

 元々世界という場所が広がって存在していたにも関わらず、それが地球が丸いということのように合理的、科学的に解釈されていくことにつれて、世界は自分達にとってもっとも身近な自分の部屋のなかにまで押し込まれてしまったというのだ。

 頭大丈夫か?と言いたくなるような訳わからん内容ではある。というか、世界の果てという言葉を少なからず期待しながら読んできたのに、実は世界の果てとは自分の部屋のことです。などと言われてしまっては、なんともガッカリした気持ちになってしまうだろう。

 ただ、なんとなく言っていることはわからなくもない。 

 というのも、まこと馬鹿馬鹿しい話ではあるのだが、子供の頃の私は、世界は自分を中心に動いているものなのだと本気で信じていた。

 子供の頃の私というのは、実に救いようのないアホなもので、何の根拠もなく、世界の中心は自分なのだと本気で信じていたのである。ついでに言えば、明日が来るのも、太陽が昇るのも、海がどこまでも広がっているのも、自分のためにあるのだと思っていた。

 子供というのは恐ろしく馬鹿かつ不思議な生き物で、常に謎の自信に満ちているのである。

 これをやったら危ないだとか、誰々と関わっちゃいけないだとか、世の中の常識をどれだけ理屈で説明しても中々人の言うことを聞こうとしない。

 私の場合も御多分に洩れず、人の話を聞かずに馬鹿なことをしでかしては大抵痛い目に遭ったり、こっぴどく怒られたりしていた。

 こうして思い返してみると、子供の頃の私というのは実に世間知らずで、わがままで、周りに迷惑ばかりかけていたと思う。

 けれど、そんな馬鹿げたあの日々のことをつまらないものだと思ったことはなかった。子供の頃に溢れていた、あの謎のエネルギーというか、黄金色のような感情に突き動かされた日々は、もしかしたら誰にでもあるのではないだろうか?

「あの曲がり角を超高速で曲がれば、まだ俺のために準備中の世界の舞台裏を覗けるのでは?」と真面目に考えて短距離走を無駄に鍛えたりもしていた。 まことにアホである。

 けれど、毎日そんなクソどうでもいいことにワクワクしながら生きていたし、世界の中心は自分なのだという確信があったのだ。

 歳を重ねるにつれて、人間関係だったり、職場の上下関係だったり、お金のことだったり、先々のことだったり、自分の思い通りにならないことが少しづつ増えていく。

 どうやら人間は、世の中というものが中々自分の思う通りにはならないということを、色んなものとボコったりボコられたりするうちに少しずつ学んでいくようだ。

 そして、だんだんと身の程というものがわかってくるようになると、ふとある時に、なんだかあの頃の自分どこかに押し込められてしまったような、そんな気がしてきてしまうのだ。

「どこまでも広がる世界は、自分の部屋の壁に押し込められてしまった。」

 何故だか、私にはその言葉の意味が、少しだけわかるような気がするのである。

 公演の最後の言葉は、世界の果てへと旅立つ者とは、壁によって遮られてしまった自己とその正反対の極点を繋ぎ合わせるためのメッセンジャーであるという言葉によって締められている。この場合、社会的自己=名刺のことであると捉えられるかもしれない。

 自身の心と乖離してしまった社会の中の自分を繋ぎあわせるための旅。私には、そんな意味が、世界の果てへの旅という言葉に秘められているように感じられるのだ。

 

花井是清と上っ面の音楽

 話をMUSICUS本編に戻す。冒頭の夜の教室での会話の後、馨は夜間学校に通いながら書いた小説をきっかけに、かつてメジャーレーベルにも在籍していたこともある実力派インディーズバンド『花鳥風月』のライブ取材に同行することになる。そして、花鳥風月のボーカルであり、馨の人生に大きな影響を与えることになる人物、花井是清と出会うことになるのだ。

 花井はかつて好きだったギタリストの話をしながら、馨に音楽というものの無意味さをこんこんと語りきかせる。

「年をとったけど昔よりもパワフルで、何も悪いところなんて見つからない。むしろ良くなってると思う。でも、俺は何も感じなかったんだ。昔は心が震えて涙が出たりもしたのに。今は何も。……それでふと思ったのさ。昔の自分はただ騙されていただけなのかもしれない。ステージの演出とか、有名なアーティストが目の前で歌ってるとか、みんなが褒めてるとか、曲がヒットしてるとか、そういういろんな情報のせいでなんとなくいい曲のような気がして涙を流していただけで、音楽の力で泣いていた訳じゃないのかもしれないって」

「よく映画とかフィクションでは、無名の天才ミュージシャンが演奏して通行人が涙を流すなんて演出があるけど、そんな光景を現実に見たことがあるかい?誰が褒めているのか、誰が演奏しているか、どれだけ売れているか、そんなことを何も知らないでただ曲を聴いて、それだけで涙を流すことなんかあると思うかい?おれたちのライブでもたまに泣いているヤツがいる。でも、昔路上ライブをしてたとき、いくら演奏しても誰も涙なんか流してくれなかった。あの時の方がずっと心をこめて必死で演奏していたのにね。」

「今なんか、ただの仕事だよ。仕事。でも泣いてる。……あれは結局状況に酔っているだけなんじゃないか?実際おれたちのライブなんかクソだよ。曲も演奏も何の価値もない。ちっとも面白くない。あれで喜んでる人がいるなんて信じられない。……きみはどう思う?音楽は価値があるものかい?」

(瀬戸口廉也『MUSICUS!』/花井是清)

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 音楽を演奏すること、文章を書くこと、絵を描くこと。表現をするという行為は、「そのひと自身」の内面を形として表すことだと言い換えることができるのではないだろうか?

 花井是清は『彼自身』の内面の叫びを誰かに伝え、心を震わせるために音楽を続けてきた。しかしいつからか、彼の音楽は『実力派インディーズバンドのボーカル』という肩書きと共に一人歩きを始めるのである。

 路上ライブをしていた時の何も持たない心を込めた演奏は誰の相手にされず、今ではCDやチケットを売るためだけの上っ面の音楽を演奏し、観客もまたその演奏に熱狂して酔いしれている。

 花井是清とその音楽には、『壁』のなかで名刺と分離し、腫れ物のように扱われた主人公にどこか似た孤独を読みとることができる。

 「会社で働いている名刺」を「実力派バンドの花井是清」という社会的な価値や役割とするならば、「何かを伝えるために必死で演奏していた若き日の花井是清」は、「壁の名刺を失った主人公」そのものと言えるのではないだろうか。

 MUSICUSに限らず、瀬戸口廉也の作品には一貫したテーマとして、「社会の中における自己自身の乖離」とそれに伴う孤独が根幹のテーマの一つとして描かれているのかもしれない。

 

キラ☆キラと境界線

 上述してきた内容について、瀬戸口廉也の過去作品における描写を見ておこう。

 安部公房の「壁」において、壁とは世界と自分の部屋とを隔てる境界線として描写されていた。

 MUSICUSの前日譚となるキラ☆キラにおいて、主人公の鹿之助の行動と心理描写の中に、そうした境界線を見出すことができる。

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 鹿之助は複雑な家庭環境の中で生まれ育った経緯から「周囲の人間の顔色をうかがいながら、その場に合わせて、最もそれらしい行動や言動をする」という中々に捻くれた性格に育つことになる。

  作中序盤、鹿之助は数少ない趣味であるテニスの練習中にケガを負ってしまう。しかし周囲の人に迷惑をかけたくないという思いから、鹿之助はケガは完治したと嘘をつき、テニスの練習に没頭していく。

 当然ながら症状は悪化した。

  一ヶ月もする頃には、僕の不調はコート立っている間だけの問題ではなくなっていた。夜はもう完全には眠れないし、食事もほとんど喉を通らない。体重が減り、しょっちゅう嘔吐するようになった。

 当然、家族や恋人といった周囲の人間はいぶかしむ。

 そう、僕はこの頃恋人がいた。身体が悪くなり始める前に、告白してきて、付き合うことになったのである。

 僕はこの彼女にも本当のことを言わず、彼女がヘンだと訴えても、いつも笑って流した。大体この彼女は、僕がテニスで成績を収めたのが原因でつきあえたようなものであるから、テニスに関する余計なことは言えない。

 訝しがられながらも、僕は自分がボロを出さぬように、毎日自分の内側に監視の目を光らせながら生活を送った。

 日々体と心が消耗してゆくのを実感しながら練習を続ける。

 消耗してゆくに従って、自分の心がコントロールを外れそうになってゆくのが判る。 イレギュラーを避けようとした結果、必要な場面以外では、人と喋ったり、関わったりしなくなった。

 独り言も口にするようになった。

 夜には、体中が無数のイモ虫に食い荒らされる悪夢をよく見た。

 太陽から見放された暗く湿った森の中を、出口もわからず、休憩もとれぬまま、一人さまよい続けているような気持ちだった。

 しかも僕がそこで探しているのは、出口ではなくて、もっと奥の深みだった。

 その深みの向こうに、新天地があると考えていたのだ。

 これで大丈夫かという不安は、あった。

 だけど、ある一点を過ぎたら楽になった。

ある一点とは、自分で『ここを通り過ぎなければまだ帰れるだろう』と思っていた一点だ。

 そこを通り過ぎ、すでに僕にはもう何も選択肢がない。このまま行けるところまで行くだけだ。

 そう思うと、妙に晴れやかな気分が心を支配してゆくのを感じることが出来るのを発見した。

 (…)うまく伝わるかどうかわからないが、そのとき僕は、確かに自由を手に入れたような気になっていた。

 世間では選択肢が多いことを自由と呼ぶみたいだけど、全ての選択肢が消え、何かを選ぶ責任から解放された状況もまた、一つの自由のかたちなのかもしれないと、その頃よく考えた。

 とにかく、そのとき僕は、奇妙な興奮に彩られたそれまで経験したことのない幸福感に侵されながら、自分一人の世界の内側へのめり込んでいったのである。

(瀬戸口廉也『キラ☆キラ』/前島鹿之助)

 

 悪化していく精神状態のなかで、ある一点…言うなれば、「壁」と言えるような何かを超えてしまったことで、今まで決して感じることのできなかった自由のような感覚を体験するのである。 常に自分自身の建前を用意して生きてきた彼だが、誰かと代わることのできないボロボロの状態のなかで、建前の剥ぎ取られた自分自身-ある種の自由のようなものを見出す。

 しかし、そんな状態が長く続くはずもなく、鹿之助はテニスの練習中に倒れ、日常生活に引き戻されていく。そして自分が自由から遠ざかり、建前の自分へと戻っていくのを感じるのだった。

 一旦テニスから離れて張り詰めた神経が穏やかになってしまうと、僕を駆り立てていた全ての感覚が、まるで憑きものが落ちたかのように消えてなくなってしまった。

 失望だとか、絶望だとか、そんな感情もない。

 どうしてもライバルに勝ちたいとかいう気持ちは、もとよりない。名選手になってテニスの技術で自分をどうにかしたいとかいう夢も、全くない。

 死なないだけ幸運だったと人に言われたが、僕の言葉には何も響かなかった。助かって嬉しかったとも、思えなかったのである。

 祭りの後のような寂しさがあって、そして、自分の勝手な目的のために、家族だとか、学校のテニス部関係者だとか、周囲の人間に対してたくさんの迷惑をかけてしまったことが心苦しかった。

 テニスにのめり込む前の、元通りの僕に戻ってしまったのだろう。

 そのまま僕は、テニス部をやめた。

(瀬戸口廉也『キラ☆キラ』/前島鹿之助)

 

 極限状態の中で、鹿之助は境界線の向こう側に確かに「自由のような何か」を見つけ出す。しかし一人ではそれに触れることのできないまま、彼は日常へと戻ることになるのである。一命こそ取り留めたものの、退院後にはいつも通りの、どこか現実に冷めきった自分がただそこにいるだけだった。

 この作品はルートごとにいくつかの物語に分かれるが、そのどれもが上述した「境界線の向こうにある自由のような何か」を見つけ出すための物語と言える。そしてそれは鹿之助だけでなく、鹿之助とともに旅をするヒロイン達もまた同様なのである。

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 キラ☆キラのヒロイン達もまた、日常という境界線の向こう側に隠された自分自身の姿を無意識のうちに渇望している。この作品には病弱な深窓の令嬢であったり、崩壊しかけた家庭を一人で支えるしっかり者の長女であったり、あるいは周囲との軋轢から自分を押し殺して生きている少女が登場する。彼女らのそうした境遇や性格というものは、学校や家庭といった周囲との日常の中で築かれる、いわば名刺のようなものであると言えるだろう。

 考えてみると日常という言葉ら不確かでぼんやりとしているものの、その実とても強固なもののように思える。毎日家と学校を行ったり来たりし、出かけたとしても電車に乗って夜には帰ってこれるような見知った街に出かける程度がせいぜいだろう。

 淡々と続く日常がどれだけ嫌でそこから逃げ出そうとしても、明日のこと、生活のことを考えてしまえば、結局自分の暮らす日常という場所へと戻らざるを得なくなってしまう。

 作中で鹿之助が試みたように、こうした自分を取り巻く日常からたった一人で抜け出すということは、それこそ蟻地獄の巣から自力で抜け出すことのように困難なことなのではないだろうか。

 キラ☆キラでは、こうした自分達を取り囲む日常を「音楽の旅」という非日常へ誘いによって脱出することで、日常の中で見失ってしまった自己を再発見する過程が、物語における重要な共通テーマとして描かれている。一人では辿り着けなかった境界線の向こうへ、自分自身の姿を探し求める二人の闘争によって挑もうとするのだ。

 鹿之助とヒロイン達はともに音楽の旅を通じた非現実という場所から自分達が置かれる日常を見つめ直すことになる。そして、もう一度その日常に向き合うことによって、自己自身の再生へと踏み出していく姿が、それぞれのシナリオで描かれるのである。

 見失ってしまった自己と社会における名刺、そしてその両極を結びつける旅。

 キラ☆キラにおいて世界の果てへの旅とは、まさしくその言葉通り、音楽がもたらす未知への旅によって、自己自身の発見が描かれているのである。


楽家達の旅

 では、MUSICUSにおいてはどうだろか?

 MUSICUSとキラ☆キラの違いとして、作品中における音楽そのものの捉え方という点が挙げられる。

 キラ☆キラにおいて、誤解を招く表現を承知でいうならば、音楽とは方法や手段である。音楽とは、自分達を非日常へと連れて行ってくれる旅への切符であり、日常を見つめ直すためのきっかけなのだ。

 対してMUSICUSはどうだろう。MUSICUSにおいて、音楽は馨を日常からかけ離れた非現実へと誘うことはない。バンドマンとして、どこまでも続いていく日常と、その過程の中にただ音楽があるのである。

 では、MUSICUSで描かれる音楽とは、一体なんなのだろう。 

  2019年の冬、PC版の本作が発売される少し前に秋葉原で行われたファンイベントにおいて、プロデューサーのbamboo氏がこんな話をしていたことを覚えている。

「私どもにとってゲーム作りの集大成となる今作ですが、あえて挑戦的に踏み込んだ部分もあります。例えばルートの分岐がまさにそうです。

 MUSICUSでは、製作段階でギャルゲーでよくある〇〇ちゃんルートのような物語の分け方をあえてしていません。

 ヒロインごと話じゃないなら、じゃあどうやって話が分岐してくんだよって話になる訳ですが、それは主人公の馨クンが音楽に対してどのように向き合うのか、という選択の結果なんです。

 音楽に対する馨クンの答えの出し方によって、それぞれの出会いがあり、別れがあり、そしてヒロインとの交流が描かれていく。つまり、全てのシナリオが主人公である対馬馨を軸に展開されていきます。

 言うなれば、1人のバンドマンの人生を音楽の向き合い方によって辿るお話、それがMUSICUSという作品なんです。」

 

 日常のなかにある音楽に向き合うということ。

 それはその人にとっての「音楽とは何か。」という果てしない問いに答えを出すということである。

 考えてみると、音楽には明確なことなどほとんどない。

 そもそも、音はどこからがただの音であり、どこからが音楽になるのだろうか。

 楽器を演奏したり、歌を歌うことが音楽なのだろうか。

 けれど、ただの雨音のなかにさえ、音楽を見つけだし、そこに楽しさを見つけ出す人がいる。

 音楽は、誰のためにあるのだろう。

 多くの人に聴いてもらえて、お金になりさえすれば、作り手の作家性だとか、曲の内容なんてどうでも良いものなのだろか。

 それとも、誰にも理解されずお金にならなくても、その作者にしか作れないものを表現した作品が、本当に良い音楽なのだろうか。

 良い音楽とは、なんなのだろう。

 世界中の誰もが知っているような有名な音楽が、本当に良い音楽なのだろうか。

 それとも、評論家や有名なアーティストが口を揃えて賞賛するような作品が、自分がそうだとわからないだけで、本当に良い音楽なのだろうか。

 誰にも見向きもされなくて、お金にもならないけれど、たった1人にかけがえのない感動を与えて、その人の人生を動かすような作品は、本当の良い音楽ではないのだろうか。

 誰にとっても共通するような音楽の答えがあるのだろうか。

 音楽とは何か。それをはっきりさせることは、とても難しいことのように思える。

 これだ!と思えるような答えを見つけて捕まえても、それは雲のように形を変えて逃げていく。

  そして、そうやって足掻く人の姿を嘲笑うかのようなあり方を見せたかと思えば、およそ常識では測り得ない救いを見せることすらあるのだ。その有り様は、およそ人の善悪や倫理観の物差しで測れるようなものではないのかもしれない。

 音楽は日常の傍らにあるもので、私達にとってとても身近なもののはずだ。

 けれど、そんなにすぐ近くにあるはずのものなのに、真っ直ぐに向き合うほどに、それがなんなのかわからなくなる。

 音楽家とは、この答えのない問いかけに対して、人生をかけて向き合い続ける人々のことである。

 その無意味さを前に、彼らは何を思い、どんな答えを出すのだろう。

 MUSICUSは、音楽に対する様々な向き合い方を、対馬馨という1人の人物によって描き分けていく。

 馨はそれぞれのシナリオのなかで、「音楽」というどこまでも続く砂漠のような問いかけを前に、一度きりの人生を賭けて、一つ答えを導き出していく。

 そしてそれは、閉塞された日常のなかに隠された自分自身という存在を、音楽によって見つけ出すということなのだ。

 どこまでも続く砂漠の果てに、ただ一掴みの答えを見つけ出す。その探求の旅こそが、見失ってしまった自分自身を見つけ出すためのーすなわち「MUSICUS」で描かれる世界の果てへの旅なのである。